2009.4.25
映写技師
今振り返ると、何れアメリカに行くつもりであったとは言え、その前に日本の特殊メイク会社の門戸を叩き、少しでも経験を積み始めていれば良かったのではと思うのですが、その頃の自分は先ず足下をある程度固めてからでないと先に進めない人間でした。働き始める前に基本的な作業は出来るようになっていたい、アメリカへ行く前に基本的な英語は話せるようになっていたい、そしてその礎が大事なんだと強く思っていましたが、実際は先への恐怖心を事前に補おうとする臆病な気持ちがそう思わせていたのだと思います。しかしそれと同時に、その臆病さが逆に自分自身で懸命に研究を重ねる原動力にもなってくれたのです。
アメリカへの渡航費を稼ぐため様々なバイトをしましたが、最終的に見つけた職業は映画館の映写技師でした。当時私が住んでいた藤沢市には9館もの映画館がありました。ある時その内の一館で映写技師を募集している事を知り、すぐに面接に行きました。ただそこは完全に社員としてずっと働いてくれる人を求めていたので断られてしまったのですが、それをきっかけに今度は他の映画館へ尋ねて回り、そしてちょうど同じく人を探していた所で雇ってもらう事が出来たのです。
仕事の内容はことのほか簡単でした。しかも映画を流している間は他の事が出来たので、その間「キネマ旬報」などの映画本を隅々まで読んだり、改めて中学からの英語を勉強し直したりしていました。新しく映画が公開される日には一人早朝に出社し、劇場のど真ん中に座って一足早く新作を見るという、非常に贅沢な経験もしていました。勤めていた劇場の作品も含め、この頃は1カ月に12、3本は映画を観ていたと思います。
映写技師の仕事は2年間。予定より長く居てしまいましたが、この間に作品も沢山創り、アメリカのメイクアップアーティスト達にも度々写真を送っては、アドバイスをもらうという事が出来るようになっていました。
映写室にテープレコーダーを持ち込み、録音した台詞を家で何度も聞いて英語を覚えて行きました。しかし「ダイ・ハード2」の様な作品はスラングが多く、後に初めてアメリカを訪れた際、緊張のあまり税関で思わず言ってはいけない言葉が口をついてしまい、取調室に連れて行かれた経験があります。
2009.4.14
素人時代作品2
同じモデルでの、老人と西洋人女性メイク。
フォームラバーがようやく市販された頃(1989)の作品です。
型が家庭用オーブンの中に入らなかった為、
石油ストーブの前に置いて、一定時間ごとに裏返したりしながら
アプライエンス(人口皮膚)を焼きました。
2009.4.1
素人時代作品1
一応身体がクネクネ、指がギシギシと動く芋虫男。
スクリーミング・マッド・ジョージさんが手がけた「帝都大戦」の影響を受けています。
ある日、家中に母親の悲鳴を轟かせることになった押し入れ。