2009.3.23
アメリカへ向けて
東京芸術大学の工芸科一本にしぼって臨んだ最後の受験は、見事、一次試験のデッサンさえ通過する事なく敗退しました。発表当日、その悔しさが産んだ涙のエネルギーは、アトリエに転がっていたポットを粉々に粉砕する労力に用いられましたが、それと同時に「認めてくれないならもういい」という割り切った気持ちも湧き上がりました。それは勉強を始めた高校3年生からの3年半、充分やり切ったという自負があったからだったと思います。
受験生活を終え、もうここで実際に特殊メイクの仕事を始めようと、それも昔から憧れていたアメリカで仕事をしようと、留学資料館や斡旋業者などを訪れて、アメリカのメイクの学校、映画大学などについて調べ始めました。しかしどうしたら最終的に向こうの工房で働けるようになるのかはわかりません。もちろん今のように簡単に会社の連絡先を入手する事も出来ませんでした。こういう時は難しい事を考えずに、パーンと海を渡ってしまえば良かったのでしょうが、そんな度胸もお金もなかった自分は、取りあえず日本で働いて渡航費を貯めながら、英語の勉強を始めました。
同時に特殊メイクの研究も夢中になって始めました。原口智生さんや若狭新一さん、田村登留さんなど、当時日本で既に始められていた方々が紹介するhow to本を隅々まで読みながら、いくつも作品を作りました。
中でも、中子真治氏著書の「SFX映画の世代」は、アメリカの特殊メイクアップアーティスト、Steve Johnson氏が当時の最新技術を細かく紹介した革新的な本で、私にとっては素晴らしい参考書でした。実際は専門用語が難しかったり、材料が日本で手に入らない物が多かったりと、簡単には真似の出来ない内容ばかりでしたが、逆に、どうすれば代用品でそれに近づけられるか実験を繰り返したり、悪戦苦闘する行動自体が、益々特殊メイクの魅力に触れて行くきっかけになって行ったのです。
当時よく参考にしていた書籍類。アメリカ留学中の友達に送ってもらった物も。
右上が今でも時々開く「SFX映画の世代」。
2009.3.13
3浪
当時の東京芸術大学デザイン科の定員数は50人。受験者数は約2500人。およそ50倍という、全国的にもかなり倍率の高い人気学科でした。一次試験のデッサンをクリアするだけでも相当な難関な訳ですが、これに受からないと二次の色彩、立体の試験は受けられません。そして2浪の私はまたもや2次試験で落ちてしまいました。しかもこの年は私立大学も3校受けましたが、全てダメでした。
「次の浪人で本当にやめます」という誓約書のような物を親に提出し、最後の受験生活が始まりました。昼間は電子部品の工場でバイトし、アトリエでは特待生になり学費を浮かせました。
元々の目標だった、特殊メイクの仕事をする為の基礎作り=美大入学という構図が、何となく違うものになって来ているのは勿論気がついていたのですが、どうしても受験を諦め切れなかったのです。特殊メイクの憧れを失くした事はありませんでしたが、この3浪目はある意味それを封印していました。
その為か、この年の文化祭の自由作品は、自分でも何か鬱屈した物を吐き出すような気分で制作し、作り終えて強烈な頭痛に襲われたのを覚えています。
タイトル「まちぼうけ」
2009.3.6
美大受験
懐かしく思われる方も多いのではないでしょうか。石膏デッサン、静物画、平面構成、立体構成など、美大受験生が必ず通る道です。
受験生は大学に受かってなんぼですが、それでも浪人中に何百枚と絵を描いて培ったデッサン力(りょく)は一生ものになります。後に、特殊メイク、特殊造型の仕事をする上で、自分にとっても大きな武器に、そして自信になってくれました。